言葉

 

 

本質的なさびしさ

というものは、

誰かと一緒に過ごして、おしゃべりするくらいでは、

その時少し 楽になるような気持ちになりはしても

完全に消し去ることは出来ないものだと思う。

 

また、

幸せ というものは

地味な目立たないところにこそあるもので、

言葉にして

「幸せだ幸せだ」とわざわざ言うような幸せは、

底が浅くて持続しないものだろう 

とも思う。

自信のもてない愛だからこそ、

「愛している愛している」と、

言葉にして言う様に。

 

幸せも愛も悲しみも、

深いものほど地味で寡黙なものではないかな。

 

 

 

・・・というわけで、

父の言葉を

悲しく 

さびしく思うわたしがいる。

 

 

父はそのことに 気がついているだろうか?

 

気がつかないふりをして、

自分自身に「幸せだ幸せだ」と、

言い聞かせ続けるつもりだろうか。

 

 

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さびしくたって

無意味だって

人は 生きていたいものかもしれません。

死が怖いのです。

実際 死ぬことは心の底から怖ろしかった。

 

わたしは

嘘の希望で塗り固めて

生きていたくはない。

人生が無意味で、

苦しく

さびしいものだと・・・

その事実に直面しても

それでも生きていたい自分を認めて、

そのうえで、

一日一日を気持ちよく生きていたいのです。

 

 

 

父は仕事のできる立派な人だとは思うけれど、

わたしは父の考え方や

言葉の在り方が

きらいです。